青春シンコペーション


第5章 ドキドキ彼女も居候?(1)


井倉の言葉に、カメラマン達は一斉にフラッシュを焚いた。
「戻らないとはどういうことでしょうか?」
記者から質問が飛ぶ。
「音大でなくても音楽の勉強はできると思うんです。生意気なようですが、自分が何処まで行けるのか試してみたいんです」
彼は真剣な表情で周囲を見た。

「ふん。とんだ天狗になったものだ」
理事長が皮肉に言った。
「せっかくこちらが譲歩してやろうというのに、恩をあだで返すとは……」
鋭く否まれて、井倉は顔色を失った。
「でも、僕は……」
唇を噛んで俯く彼に黒木が言った。
「どうした、井倉。言いたいことがあるならはっきり言わんか!」
「黒木先生……」
彼は勇気づけられたように頷くとじっと正面を見て姿勢を正した。

「僕はもっと自由に……本当の音楽を奏でたいんです。この手で! 魂のある限り……」
それを聞いた黒木が強く頷く。その脇にはハンスがいて、美樹に何やら囁いていた。彼女は頷くと、正面の井倉に手で合図してその場を離れた。記者達はまだ誰も気づいていない。井倉は話を続けた。
「それを感じさせてくれたのはハンス先生でした。もちろん黒木先生もです。もしも出会っていなければ、今の僕はなかったのです。僕にとっては掛け替えのない時間でした。大学で習うことがすべてじゃない。僕はもっと世間を知り、視野を広げて行くことこそ、これからの僕にとって必要なことなのではないかと強く感じたんです。我儘かもしれませんが、どうか僕の思ったようにさせてください。お願いします」
黒木が頷く。隣にいたハンスも笑いながら手を叩いた。その音に振り向いた記者が呟く。

「あれがハンス・ディック・バウアーか」
記者達がざわめく。
「いったい何者なんだ?」
「ちょっと待て。あれって18番の彼女じゃないか?」
ぼそぼそと話声が聞こえた。
「それは本当か?」
藤倉がその男の肩を掴む。

「ええ。自分はあの時、ホールの中にいたんです。髪の色が違うけど、あの時の彼女に似てますよ」
(17番があのフリードリッヒ・バウメンだというなら、18番はもう一人の講師か。十分に有り得るな」
藤倉は一人納得した。注目の先が井倉からハンスの方へ移ろうとしていた。

「ハンス先生、ここは一先ず外へ出た方がいいでしょう。井倉のことをお願いします」
黒木が状況を悟って彼に耳打ちした。
「わかりました」
彼が頷くと、黒木はさっと記者達を掻き分けて前に進んだ。

「では、ここで私からも重大な発表を致しましょう」
黒木の言葉に再びフラッシュの嵐が巻き起こり、視線が彼に集中した。
「重大なこととは何でしょう?」
「まさか黒木さん、貴方まで音大をお辞めになるとかじゃありませんよね?」
彼のことを知る記者達がこぞって質問を投げ掛ける。
「そのまさかです。私も井倉同様、音楽とはもっと自由であるべきだと気がついたのです。管理社会の中に押し込められていては、真に素晴らしい音楽を奏でることはできない。だから、私も旅立つことにしました」
周囲にどよめきが起こった。

「そんな勝手な……!」
理事長が青ざめて叫ぶ。
「私は気づいたのです。ハンス先生や井倉と過ごしたこの2カ月の間に……人には無限の可能性があるのだと……。だから、もう音大には戻れない」
「……狂喜の沙汰だ!」
理事長は青ざめた顔で唇を震わせた。が、取材の者達はそれこそスクープだと喜んで写真を撮った。そうして黒木が記者達を引き付けている間に、ハンスは井倉を連れてそこから離れた。

「こっちよ、早く」
エントランスの影から美樹が呼んだ。
「タクシーを待たせてあるの」
「ありがとうございます」
井倉が急ぎ足で外に出る。
「あ! フリードリッヒ!」
扉の前でハンスが彼を見つけて駆け寄った。

「今夜まだ日本にいるなら、僕の家に来ないか?」
「何故?」
怪訝そうな彼にハンスが続ける。
「パーティーをするんだ」
「しかし、今夜は彩香さんのお宅に招かれている」
「彩香さん? なら、丁度いいよ。彼女も誘って来ればいい。一緒にお祝いをしよう。彼らはもともと大学の同級生で、僕の生徒でもあったんだ」
「なるほど。そういう関係か。あの理事長に一杯喰わされたな」
フリードリッヒはすっと目を細める。

「けど、報酬はもらったんだろ?」
「ああ。だが、結局、コンクールで一位になったのは君だ」
「コンクール? そんなものはどうでもいいよ。とにかく、今夜来れば、もっといろいろなことを教えてやるさ」
「教える? 大層な物言いだね。だが、ここで厄介事に巻き込まれるのは御免だ。とっとと行きたまえ。私もあとから行く」
向こうから藤倉が近づいて来るのを見て、フリードリッヒは彼を追いやった。ハンスが車に乗り、行ってしまうのを見て、藤倉は落胆したが、フリードリッヒに近づいて言った。
「あなたがあの17番の人ですね? ヘル バウメン。事情を聞かせてもらえますか?」
しかし、彼はオーバーに両手を広げて首を振った。
「ソーリー。私、日本語わかりません」


家に着くと、美樹の両親が出迎えてくれた。
「井倉君、優勝おめでとう!」
「よく頑張ったな」
彼らから労いの言葉を受けて、井倉は恐縮した。
「ありがとうございます。僕のせいで、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
この2カ月の間は、彼のレッスンを集中的に行うからと、美樹の両親や友人に対しても、少し訪問する頻度を控えてもらっていたのだ。

「いいのよ。そんなこと気にしないで」
「有言実行。素晴らしいことじゃないか」
彼らは好意的だった。
「それよりお母さん、頼んでいたこと大丈夫?」
美樹が訊いた。
「ええ。全部できてますよ」

リビングは美しく飾られ、中央にはグランドピアノが2台と大きな花束が置かれていた。
「先生、これは……?」
「ほんとはもっと早くこうしたかったのですが、業者の人が都合悪くて、今になっちゃったですけど、パーティーに間に合ってよかったです」
ハンスが新しく来たピアノの蓋を開けて言った。
「調律もついさっき済んだところよ」
美樹の母が教えてくれた。
「ありがとう。これで、連弾とかもできますね」
ハンスはそのまま蓋を閉めて笑った。

「あの、まさかこれって僕のためにですか?」
恐る恐る井倉が訊いた。
「それもあるけど、僕の教室の子ども達のためにでもあるんです。その方が楽しいですからね」
師匠の言葉に彼はほっとした。
「喉が渇いたんじゃない? 何か飲み物でも持って来ましょうか?」
美樹の母が訊く。
「ありがとう。わたし、オレンジジュースがいいな」
彼女が言うと父が笑って言い返した。
「何だ何だ。おまえは何もしてなかったんだろ?」
「もうっ。それはないわよ、お父さん」
娘が不満そうな顔をする。

「そうですよ、美樹さんだって、とても気を遣ってくれていたんです。いくら感謝しても足りません」
井倉が懸命に娘を庇うのを見て、父は笑って彼の肩を叩いた。
「ははは。わかってるさ。心配してくれてありがとう。君は本当に優しいんだね」
「いえ、そんなことは……」
しどろもどろに言い訳していると、ハンスが口を挟んで来た。

「井倉君だけじゃないですよ。僕だって美樹ちゃんにはとっても優しくしています」
「はは、そうだったな」
美樹の父は愉快そうに笑って言った。
「それより、美味い菓子を買って来たんだ。みんなで食べよう」
「ありがとうございます」
二人がうれしそうに席に着く。テーブルの上にはもう飲み物が用意されていた。


夜8時。ぽつぽつと人が集まって来た。
飴井や井倉の家族も来た。
「あ、飴井さん、この度はうちの家族が大変お世話になりまして、本当にありがとうございます」
井倉が頭を下げると彼は笑って言った。
「いや、これも仕事だからね。それより、君も頑張ったようじゃないか。コンクールで優勝するなんてすごいことだよ」
「ありがとうございます。これもみんなハンス先生や黒木先生をはじめとする皆さんのおかげです」

「しっかりしてるね。感心するよ。それにしても、ハンスもあんな風に見えて、ちゃんと先生してるんだな、驚いた」
「キャンディー、それは酷いですよ」
ハンスが口を尖らせる。
「そうよ。プロのピアニストなんだもんね」
美樹も笑いながら言った。が、ハンスはそちらを見なかった。そして、彼女を避けるようにして前に出ると澄子に話し掛けた。

「澄子ちゃん、お兄ちゃんほんとにすごかったでしょ?」
「ええ。やっぱ先生がいいと違うわよね」
「当然です」
ハンスが笑う。いつもと同じ明るい笑顔だ。しかし、井倉は微妙に違和感を感じた。が、次の瞬間には美樹もにこやかに井倉の両親と挨拶を交していた。
(どうしたんだろ? 気のせいかな)
何かが心に引っ掛かった。が、人の流れに身を任せて彼はリビングへ戻って行った。

それからも途切れることなく客が訪れた。ハンスが教えている子ども達や近所の人達、井倉と面識のある者はみんな呼ばれた。
「おめでとう! 井倉君」
「お兄ちゃん、おめでとう!」
「優勝するなんてすごいのね」
みんなから褒められて、まだ乾杯もしていないのに井倉は顔を赤らめていた。

そこへ黒木と藤倉が到着した。
「はじめまして。私、音楽評論家をしている藤倉と言います。どうぞよろしく」
玄関口で名刺を渡し、挨拶する彼。
「藤倉さんですか?」
きょとんとしているハンスに黒木が言い訳する。
「いや、申し訳ありませんな。どうしても連れて行って欲しいと言われて……。藤倉君とは長い付き合いになるものですから、無下に断れなくて……」
「私は皆さんのお邪魔にならぬよう、じっと壁の花になっていますから……」
藤倉が頭を下げる。
「あは。大丈夫ですよ。今日は無礼講なんですから……。もっと堂々と真ん中にいてください」

ハンスが笑って手を差し出したので、彼も安心してその手を握った。
(これがあの時の18番……)
その手に触れて、彼は心が震えるのを覚えた。
そこへまたベルが鳴った。到着したのはフリードリッヒと彩香だ。

「グーテンアーベント!」
フリードリッヒが言った。
「お招きいただきありがとうございます」
彩香も挨拶する。
「どういたしまして。さあ、どうぞ上がってください」
ハンスが手招きする。

リビングに入ると、ハンスが皆の前に出て言った。
「さあ、メインの二人はこちらへ」
客は総勢五十人を越えていた。いつもはがらんとして広いリビングも、今夜は狭く感じられる。
「これでメンバーが揃いました。皆さん、乾杯の準備を」
彼の言葉に、皆がグラスを持って待ち構える。井倉は脇にいる彩香に見惚れた。彼女は華やかなレースをあしらったイブニングドレスに身を包んでいた。ここではちょっと場違いな感じがするほど人の目を引いた。招かれた客の多くはカジュアルスーツだったからだ。

「今夜は井倉君と彩香さんのコンクール受賞パーティーにお越しいただき、ありがとうございます。まずはお二人からのごあいさつをお願いします」
ハンスが言うと客達の間から歓声が上がった。
「では、井倉君、どうぞ」
指名されて、彼は緊張しながらも話し始めた。
「本日は、僕の、いえ、僕達のためにお集まりいただきまして、本当にありがとうございました。僕が先生のお宅で練習させていただいたせいで、いろいろとご迷惑をお掛けした皆様のご協力に感謝します」

「あれ? 井倉のお兄ちゃん、結婚するの?」
突然、小さい女の子が叫んだ。
「えっ?」
井倉が顔を赤らめる。
「だって、このお姉ちゃんまるで花嫁さんみたいにきれいだよ!」
幼稚園児の遥も言った。
「それに、さっきからずっとお姉ちゃんのこと見てたもん。きっとお兄ちゃんはこの人のことが好きなのよ」
小学生のしおりも言った。それを聞いた大人達はくすくすと笑ったり、顔を見合わせて頷き合った。

「ねえ、これって結婚式なの?」
更に訊かれて井倉はどぎまぎして答えた。
「ち、違うよ。これは、その……」
「わあ! お兄ちゃんのお顔赤くなったぁ」
子ども達がはやす。
「ワオ! コングラッチュレイションズ!」
数人の外国人達も声を上げる。
「だから、違いますって! これは……」
井倉が弱っているのを見て、ハンスが口を出した。

「えーと、皆様ご静粛に! 二人の結婚というのは、まだ少し先ということで、取り合えず、今はピアノコンクール優勝、準優勝を讃えてのお祝いを先にするということでよろしいですか?」
ハンスが小さい子達に了承を得る。
「なーんだまだ結婚じゃないんだって」
「でも、優勝したんだって、すごーい!」
子ども達が手を叩く。
「では、続きまして、彩香さんからもご挨拶をお願い致します」
ハンスに言われて戸惑いながらも彼女は簡単に挨拶した。
「今夜はお招きいただきまして、ありがとうございます。でも、井倉とはそういう関係ではありませんので、そこのところはどうか間違えないでいただきたいと思います」

「なあんだ。ちがうんだって」
つまらなそうに遥が言った。
「でも、お姉ちゃんもピアノがとっても上手だから、ここに来たんでしょう?」
しおりが言うと他の子ども達も
「弾いて! 弾いて!」
「お姉ちゃんのピアノ聴きたーい!」
と合唱が起きた。
「二人にはあとでたっぷり弾いてもらうからね。今は取り合えず乾杯しよう!」
と、ハンスが言うと、子ども達も口々に叫んだ。
「乾杯だ!」
「乾杯だ!」
「さあ、グラスを持って」
ハンスが子ども達を見回す。

「では、改めまして、二人の未来を祝して乾杯!」
ハンスが叫ぶ。と、皆がグラスを打ち合わせ、「乾杯!」と叫んだ。
「井倉君、おめでとう!」
「彩香さん、おめでとう!」
クラッカーが鳴らされ、会場は一気にお祝いのムードに包まれた。

そして、ピアノの夕べが始まった。
彩香がエチュード4番を弾き、井倉が月光を弾いて喝采を受けた。
それから黒木が名乗り出て、井倉と連弾をしようと言い出した。
「え? でも僕……いきなりそんな……」
どぎまぎしている井倉の背中を押して、無理やりピアノの椅子に座らせる。
「黒木さん、どうせならワルツを! 僕は美樹ちゃんと踊りたいです」
ハンスがリクエストする。
「わかりました。よし、井倉、おまえが弾ける曲を……」
「それじゃ、ヨハン シュトラウスで……」
曲が決まると二人は早速息を合わせて弾き始めた。すると、その曲に合わせてハンスと美樹が踊り始め、続いてそこにいた誰もがステップを踏んだ。その曲が終わると、今度はフリードリッヒと彩香がバッハを弾いた。

「何という夢の師弟競演だ……」
藤倉はうっとりとその音色に聴き入った。
「藤倉さんは踊らないですか?」
突然話し掛けられて振り向くと、そこにはグラスを持ったハンスが立っていた。
「私はその、相手もいませんし、こうして皆さんの弾くピアノを聴いているだけで至福の時間なんですよ」
「そうですか。それじゃ、僕はもう一曲踊ろうかな」
そう言うとハンスはグラスのワインを一気に飲んでテーブルに戻すと、また中央に出て美樹の手を取った。

「フリードリッヒ! アンコール!」
ハンスが叫ぶと会場にいた人々も一緒に叫んだ。
「アンコール!」
彼は頷き、再び彩香と音を重ねた。

「何て贅沢な時間なんだ。あのバウメンの弾くピアノをBGMに……」
藤倉が見惚れる。と、その脇にいた井倉もまた、別の意味で上気する想いをピアノに向けていた。
(彩香さん……君はほんとにすごい。あのフリードリッヒ・バウメンと堂々と音を合わせて弾くことができるなんて……。僕なんか黒木先生にずっとカバーしてもらってたのに……)
「彼女は……」
藤倉がぽつりと言った。井倉がびくりとしてそちらを向いた。
「いえ、ハンス先生はお弾きにならないんでしょうか?」
男の問いに井倉は首を振り掛けて言った。
「多分、お弾きになるんじゃないかと思いますけど……約束していましたから……」

――君が優勝したら聴かせてあげますよ。僕の本当のピアノを……

(本当の……? それじゃ、あのコンクールで弾いたピアノは……バウメンを破って1位になったあのピアノは、先生の本当の実力じゃないというのか?)
その言葉を思い出して、井倉は愕然とした。

「ところで、君は確か井倉君だったね」
藤倉が言った。
「はい」
「君のピアノ、実によかったよ」
「は?」
「素直でまるで汚れてないって音だ。繊細で壊れそうなのに折れない強さが感じられる。嵐にもまれて、これからどんどん強くなる。そんな可能性があると思うんだ。音大を辞めていろいろ辛いことがあるだろうけど、君の選択は正しいと思う。これからの君の成長に期待してるよ」
「あの、ありがとうございます」
井倉は深く頭を下げた。

「頑張れよ。ピアノも、彼女のこともね」
そう言って藤倉は微笑した。井倉は何と返事をしたらいいのか迷って沈黙した。その頬が赤い。
「はい。ピアノ頑張ります」
慌ててそう言った時にはもう評論家の姿はなかった。テーブルに飲み物を取りに行ったらしい。
(彩香さん……いつか僕も彼女とあんな風に弾けたら……)
ミスのない二人の完璧な音。曲が終わるとまた一斉に拍手が起こった。

「それじゃ、ちょっと交代して」
ハンスがフリードリッヒに言った。
「次は君か? 期待してるよ。あれだけ大層なことを言ったのだからな」
フリードリッヒが皮肉を込めて言う。
「さあ、みんなの出番だよ。おいで」
ハンスが子ども達を呼んだ。
「おい、まさかこんなチビちゃん達の演奏を聴かせるつもりじゃないだろうね、この私に……」
フリードリッヒの問いを無視してハンスが中央に座り、小さな子ども二人がその両脇に腰掛けた。

そして、唐突に曲が始まった。三人で弾くスケーターズワルツ。ハンスの右隣の子はまだおむつをしていそうな男の子で、たった指一本で弾いている。左側の子もまだ幼く、シンプルな和音を全身を揺すって楽しそうに弾いた。その他の音すべてをハンスが担当している訳だが、それがまるで三位一体の美しい仕上がりになっているのだ。そうして次々とパートナーを変え、ハンスと子ども達の演奏は続いた。
「何? 子どもの拙い演奏がこんな……」
藤倉は信じられないといった表情でハンスを見つめた。
「これはマジックだ」
フリードリッヒも目を見張った。

彼らの演奏は、大人達のそれにも引けを取らない出来だった。しかも弾いている子ども達がみんな楽しそうなのだ。心配していた親達もいつの間にかその演奏に引き込まれていた。そして、客達にも変化が現れた。じっくりと耳を傾ける者。曲に合わせてダンスする者。そして、和やかに談笑する背後に鳴るBGMとして、自然に受け入れられていった。
美樹は時計を気にしていた。子どもは全部で12人いた。その全員と弾くつもりらしい。
(大丈夫かしら?)
そんな彼女の肩にそっと手を置いて父が頷く。
「そんな顔するな。ほら、こっちに来てお客さんの接待をしなさい」
「そうね。そうするわ」

井倉はおずおずと彩香に近づいて言った。
「あの、彩香さん、今夜は来てくれてありがとう」
「どういう意味かしら? わたしはハンス先生のお招きを受けたから来ただけよ。別にあなたのためじゃない」
「それは……わかってます。でも……」
「お黙り! せっかくの演奏が聞こえないじゃない」
彩香がきつい目をして言った。ハンスと子ども達の演奏はまだ続いていたのだ。
「そうだね。ごめん」
井倉が軽く頭を下げる。

「それにしても素敵だわ」
彩香が言った。自分のことを言われた訳ではないとわかっているのに、井倉は何故か胸の高鳴りを覚えた。
「わたし、ずっとハンス先生に付いて行くことにするわ」

子どもとの連弾が終わり、一例すると、ハンスは一人でピアノの前に座っていた。そして、ちらとこちらを見て頷いた。約束したことをしてくれるつもりなのだとわかった。

――君が優勝したら、聞かせてあげますよ。僕の本当のピアノを……

会場がしんと静まり返った。誰もが彼に注目している。
(ハンス先生……)
それは本当に時が止まったかのような沈黙だった。そして、人々の間を静かな春風のようなやさしさが吹き抜けた。
(エオリア……)
ピアノの前に坐した彼の優雅な曲線を見て、藤倉は震えた。
(彼はやはり音楽のミューズ……)
小さな子ども達でさえ、彼の手足と同じもので結ばれていた。そして、大人達も……。

(ホールで感じたあの風がここにも……? いや、ちがう。もっと繊細な……音の)
微弱な思念が部屋の空気を震わせた。
ハンスの指が静かに鍵盤に落ちる。
そして、最初の一音が鼓膜を揺らし、その胸の奥に振動をもたらした時、藤倉は思考する言葉を失った。ただ純粋な赤ん坊のように無垢な心で、そのメロディーを、彼のすべてを受け入れた。

エオリアンハープ……
乾いた風の中に響く……。
(まるで絹糸のように滑らかな……そして、懐かしい……)
風がすべての空間を満たしていた。
そこには何もなかった。
そして、すべてが波打っていた。

(存在した)
ピアノに映る想い。
そこにあった確かな記憶……。
――僕はここにいる。君の傍に、いつもいたんだ
突き上げる感情。
届かない夢……。
その頬に涙が流れていた。ただ熱い涙が……。

ハンスはふっと小さな吐息をもらし、再び静かに目を閉じた。
そして、彼が一番大切にしていたその曲を弾いた。
「幻想即興曲」
狂おしくも繊細で優しいその旋律を……。
そして、愛する者と共に、彼は過去の思い出を忠実に辿ろうとしていた。

(ああ、すべてを巻き戻すことができるなら……)
彼は時のしじまの幻想を見ていた。
――この曲を君に……
(君だけのために……)
色褪せた額縁の中に浮かぶ二人の肖像……。

(あれは……ショパン……か?)
強い思念が甦る。孤独な二つの魂が重なって共鳴し、その手は奔放に動いてこの世のすべての楽器を掻き鳴らした。

(……ちがう。ショパンでも、他の誰でもない……)
藤倉は思った。
(彼は……音楽そのものなんだ)
男は呆けたように目の前に広がる奇跡を……ハンスの奏でる幻影を見ていた。

(まるで違う……コンクールの時とは……)
井倉は思った。
「これが先生の真の実力……? でも、わからない。どうしてこんなに涙が出るのか……」

「完敗だ……」
フリードリッヒが呆然として呟いた。
「技巧は私に引けを取らない。それは認める。しかし、この敗北感は何だ? このあまりにも歴然とした決定的な差は……」
そう思わず口にした。

「魂の在り処を知っているんですよ」
それまで沈黙していた黒木が口を開いた。
「魂の在り処?」
フリードリッヒが振り返った。
「彼は楽譜から音楽を起こすのではない。その時代と作曲者、そして、すべての背景を呼び、再現することができる奇跡のピアニストなのです」

「馬鹿な! 信じられない。しかし……」
彼はもう一度ハンスを見た。そこに座る彼はハンスでも有り、作曲者自身でもあった。揺らぎの中で生まれるものは、やはり音楽そのものだった。

「ああ……。何てことだ。叶わない。彼にはとても……」
フリードリッヒが頭を振った。
「彼はコンクールではわざと……。違う。技巧はそのままに、逸脱することのないぎりぎりの感情で曲を豊かにしている。こんなにもパーフェクトで美しく……。魂を込めて……。私には弾けない。とてもこんな風には……。私はもう一度音楽を学び直さなければならない。そう彼には伝えてください」
そう言うとフリードリッヒは静かに部屋を出て行った。

「魂の再現……」
井倉はまだ彼が奏でた幻想の名残りに酔いしれていた。黒木も藤倉も、そして、ここに居合わせたすべての人間がハンスの心と共鳴し、涙を流していた。

「わたしは……」
すぐ脇から彩香の声が聞こえた。本当に微かな声だった。が、その意味を理解した時、井倉の心臓は飛び上がった。彼女はこう言ったのだ。
「わたしも明日からハンス先生のお宅に居候させてもらう」